ごいりょくをください

工藤遥ちゃんありがとうの気持ち

のぼる小寺さん

夏の暑さが伝わってくるような。時間が無限にある気がするような。土の匂い、雨の匂い、セミの声、シューズが擦れる音、へばり付くような汗が実際に感じられるようで。複雑で単純で。懐かしくて、眩しくて、憧れて、羨ましい。頑張れた人にも、頑張れなかった人にも、頑張りたい人にもじんわりと寄り添って優しさで包んでくれる作品。

同じ映画を何回も映画館へ見に行くなんて初めてだった。1日に同じ映画を複数回観ることも初めてだった。この作品は私たちと同じ時間が流れていて、同じ世界にいる。自分もその世界の一員のように入り込んでしまう。だからこそ何度でも小寺さんを見に足を運んでしまう。私も小寺さんを見つめたいと何度も何度も・・・。

何か"特別大きなこと"が起こるわけでもなく、ゆっくりと淡々と、でも少しずつ何かが変わり、ちょっとした何かが起こる。

 

「のぼる小寺さん」

 

 いち観客が感じたままに書き殴ったただの感想文なので、映画の内容にガンガン触れていきます。後からネタバレやんか!とならないように、ネタバレを避けたい方は読まない方がよろしいかと。(読んでくれる方がいるかもわかりませんが、念のため)

 

 

   小寺さんはそこにいるだけ。大きな幹のようにそこにいるだけ。ただ真っ直ぐ登り続ける。何事にも真っ直ぐに全力で向き合う。小寺さんは実力者だ。しかし劇中では何度も何度も落ちる。落ちてはのぼり、落ちては、のぼり。ひたすらのぼる。壁の上に立った時、岩の上に立った時の活き活きした表情に胸がきゅっとなった。

ある記事に書いてあった 「小寺さんという太陽を周回する惑星のような」という表現が私の中でしっくりきている。そう小寺さんはひたすら壁をのぼっているだけ。変わっていくのは小寺さんを見つめる人たち。決して小寺さんを巻き込むことはしない。小寺さんに触れて、感じて自分で糸口を見つけていく。小寺さんは無自覚な太陽なのだ。

  

 全力でやることを本気でやることを恥ずかしいと思う人、バカにする人、「ダサい」と思っている人。初期の近藤、卓球部の2人、ボルダリングの壁を遊びで登っていた3人、チラシ配りの小寺さんを揶揄った2人。本気になれず、夢中になれるものを見つけられず、自分のことは棚にあげ笑う。でも心の内は焦っていたりする。

近藤は小寺さんを見つける事によって、「頑張ること」が美しいことに気が付く。親に言われて何となく緩そうだったから入った部活。練習に後ろ向きな姿勢を卓球部の部長は見ていた。同じくめんどさいと思っている2人がそんな近藤を見ていた。卓球部の2人は近藤が小寺さんを見ていることに気づいた。それでも2人は”小寺さん”を見ることはない。

近藤は小寺さんを見つめることで変わっていく。惰性でやっていた卓球に本気で向き合い始める。その様子を部長と2人は見ていた。部長とラリーをする近藤。部長はきっと少し前の近藤とラリーをしようとは思わなかっただろう。近藤を見ていた人も変わっていく。部長とは距離が近づき、2人とは距離が遠くなっていく。

  近藤は大会に出場するまで成長し、ベスト8まで勝ち進む。大会後あの2人が「なんか悪かったな」と仲直りの握手を求めたが、近藤はその手を握らず「いいんだよ」と帰っていく。近藤が握手を返さなくてよかった。あのまま握手していたら、卓球部のあいつは許された気になってしまったかもしれない。握手を拒否されたあの顔は変わる人の顔だ。気づいた人の顔だった。あいつはもう一生懸命の近藤を馬鹿にすることはないだろう。小寺さんを軸として水紋のように見る見られる関係が広がっている。

 

中学時代から小寺さんを見ていた四条。劇中に登場した時点で成長している最中だったように思う。

プルプルしながら「もう無理です」「怖いです」と言っていた四条君が、体育館の壁を登り切り、最後のホールドを両手でつかむことも忘れるくらい、嬉しそうに良い顔をしている様子をバレー部のあの子が見ていた。まだ髪を切る前の四条君のことを梢ちゃんはずっと見ていた。彼女の「ずっと見ていました」という告白は見る見られる関係が広がっていることを実感させてくれる。見る人は見られる人でもある。

 

 「卓球部のアイツら」「バレー部のあの子」とずっと呼んでいるが、ちゃんと名前がある。眼鏡が松平、相棒のようにいつも一緒にいる方が水谷、バレー部のあの子は梢ちゃんというらしい。私は松平と水谷(特に松平)のことをずっと考えてしまうくらいには気に入っているし、梢ちゃんはとても好き。

  私が覚えている限り、この3人の名前は劇中には出てこない。出演者さんのTwitterで知ったぐらいだ。他にもクラスメイトの子たち一人ひとりに役名があることを知った。劇中ではやはり名前が出てこない。生徒Aでも生徒Bでもない、みんなに“名前”がある。ふとのぼる小寺さんは全員が主人公なんだなと思った。それぞれが主人公。松平も水谷も、バレー部の梢ちゃんも教室の端っこで見切れていたあの子も、水道行っておいでのあの子もみんなみんな主人公。誰かがどこかで見ていてくれて、みんな何者でもある。

 

 「のぼる小寺さん」は“見る”“見られる”を描いた映画であり、アイドルとファンの映画であり、夏に飲む清涼飲料水のような青春映画であり、私にとっては自分を“見つめる”映画だった。

 1年ほど前、私は初めてエントリーシートというものに向き合った。就職活動という人生においての大イベントである。毎日毎日自己分析、自分は何者かを考えた。苦痛でしかなかった。自分はからっぽで何にも持っていないと絶望した。特技もないし、自分には何も持っていないと思っていた。まさに小寺さんを見つける前の近藤で、卓球部のアイツらのようだった。ただ、一つ私が胸を張って“本気です”と言えることがあった。工藤遥さんを好きになったことだ。そう考えると卓球部のアイツよりも、同じクラスの「一生懸命見てるんだよ」君だったのかもしれない。と言い切りたいところだが、卓球部のアイツらとオタク君のハーフと言っておこう。・・・少し逸れてしまった。

「自分は空っぽだ」と焦り、焦り、とてつもなく焦った私を助けてくれたのはゼミの教授だった。私が知らない私のことを沢山教えてくれた。私を見てくれている人がいた。誰も見ていないと思っていたし、だれかに見られていると意識して生活している人はほとんどいないだろう。だからこそ、嬉しかった。ちゃんと私を“見てくれている人”がいるのだと。 

 そんなこんなで今年4月から私は社会人になった。この人生の節目のタイミングで今度は自分の人生について考え、悩んだ。このままの自分でいいのかと。のぼる小寺さん公開前の6月末、私はその時のもやもやした気持ちを文章にしていた。どういうタイミングかこのすぐ後にのぼる小寺さんが公開し、私はさらに背中を押されることになる。私も変わりたい。

 

小寺さんを見たあと、無性に走り出したくなった。「私も何か頑張りたいな」と思い、おろそかになっていたダイエットを始めた。会社の1階から5階まで毎日階段で”のぼる”ようにしている。ちょっとしたことだけどこれが結構キツイ。 ほかにも頑張ってみようと思うことが沢山ある。

 

 眩しく、懐かしく、羨ましく、時にチクッと心に刺さり、ほわっと心を温めてくれる。この夏、小寺さんに出会えて良かった。そっと背中を押してくれる優しい作品です。